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2019-04

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ベビーフェイスラプソディー ACT2 - 2010.12.17 Fri

ACT2

開発手記 二〇〇一年二月七日
 プロジェクト<エリクサー>の進捗状況ははなはだ芳しくない。
<Z>の開発からもう丸二年になるが、まったく進んでいないというのが現状だ。
 上層部が焦れてきている。このままではプロジェクトの凍結も有り得るだろう。
 急がなければならない。

開発手記 二〇〇三年九月二一日 
 本日、<Z>の抗体を持ったモルモットの存在が確認された。
 長かった、実に長かった。
 これで『血清』を作る事ができる。
 プロジェクト<エリクサー>もついに次の段階へと移行する。
 実に良い気分だ。子供に何かプレゼントでも買ってやるとしよう。

開発手記 二〇〇三年一一月一日
 血清により、血管破裂で死亡するモルモットはゼロになった。
 いくつかの動物に対する前臨床試験でも同様で、死亡例は確認されなかった。
 さあ、次はいよいよ臨床試験、すなわち『人体』での実験だ。

開発手記 二〇〇三年一一月四日
 室長が人体実験に待ったをかけた。
 血液依存症の克服がまだ成されていないというのがその理由だ。
 まったく、何を瑣末なことにこだわっているのか。
 しかし、ヤツがこのプロジェクトの最高責任者だ。従わざるを得ない。

開発手記 二〇〇三年一二月二四日
 プロジェクト<エリクサー>の開発打ち切りが決定した。
 この不況下で、成果が出せていない部署をいつまでも残してはおけないとのことだった。
 我が半生をかけた研究が、人類の夢が、ここで潰えてしまうのか。
 否! 断じて否だ!
 今更中断などできようものか。
 こうなればわたし一人でも<エリクサー>を完成させてみせる。
 たとえ悪魔に魂を売り渡し、この手を汚す事になろうともだ……。



「たくっ。親父のヤツ、どこ行ったんだよ……」
 壁にもたれかかりつつ、勝弘はコーヒーを呷った。仕事が一段落し、ちょうど休憩時間になったので廊下で一服しているところであった。
 勝弘の正面、少し離れた所にある喫煙室には、ニコチンの切れた愛煙家たちが雪崩れ込んでいる。昨今の社会的嫌煙の流れから、ここパラケルでもオフィスでは全面禁煙となっていた。
 勝弘は今年大学を卒業し、パラケル開発部四課に配属されたばかり。入社してまだ一月足らず、右も左もわからず上司からは学生気分が抜け切ってないと叱られる日々を過ごしている。
「人のせいにはしたくねえけど、集中できるかよ」
 くしゃっと勝弘は紙コップを握り潰し、ゴミ箱へと放る。
 勝弘が入社した三日後、彼の父――阿国創は謎の失踪を遂げた。最初の一~二日は研究にでも行き詰まって独りにでもなりたかったのだろうと高をくくっていたが、さすがに三日以上音信不通が続くと不安になってくる。
 当然、警察にも捜索願を出したが、手掛かりのひとつも掴めていない。そして一週間を過ぎた頃には、不安を通り越して恐怖すら覚えるようになった。元々身体の弱かった母は、その心労のあまり倒れ、今は近くの病院に入院している。病状もあまりよろしくない。
 勝弘はまだ若く未熟であり、こんな状態で平静を保てというほうが土台無理な話だった。
「勝弘、大丈夫?」
 ふと声がして振り向くと、落ち着いた感じの綺麗な女性が、心配そうに勝弘を見つめていた。長く艶やかな黒髪が非常に印象的で、名画を見るような、どこか侵しがたく神聖な雰囲気を漂わせている。
 彼女の名前は浦嶋深雪、勝弘の同い年の幼馴染みであり、今はフィアンセでもある。わざわざ忙しい間を縫って、勝弘の様子を見に来てくれたらしい。その事がわかって、勝弘は有難いと思うと同時に、男としての自分の頼りなさを不甲斐なくも思った。
「おじ様、変な事件に巻き込まれてなければいいのだけれど……」
 深雪が頬に手を当て、ほうっと溜息をつく。
「そう、だな」
 父の失踪と時を同じくして紅月市で起こっている、ある怪事件が嫌でも勝弘の脳裏に思い浮かぶ。突然、人が昔話に出てくるような鬼へと変貌し、街を破壊し人を食らうというショッキング極まりない事件だ。しかも単発ではなく、すでに三件も起きている。
 幸い、その被害者の中に父の名前はないようだが、父の失踪とピタリと時期が合うのが何とも不安を掻きたてた。
 ピンポンパンポン。
 ふと、スピーカーからアナウンスチャイムが鳴り響いた。
『開発部四課、阿国勝弘さん、総務部庶務課、浦嶋深雪さん、至急、第一会議室までお越しください。繰り返します。開発部四課…………』
「オレたち、だよな?」
「うん、わたしたち、よね」
 勝弘と深雪はお互い確認し合うと、不思議そうに小首を傾げた。
 第一会議室はいわゆるパラケルの経営陣が使う場所だ。ペーペーの新入社員にすぎない勝弘たちには到底縁のない場所だったからだ。
「親父の事でも聞こうってところか?」
 とりあえずそれぐらいしか勝弘には思いつかなかった。
 彼の父である創も、パラケルに勤務していた。しかも社をあげた重要プロジェクトに参画していたらしい。会社としてもその行方は気になるところだろう。失踪後一カ月経って、というのはあまりに遅すぎるような気がしないでもなかったが。
「でも、わたしも呼ばれたわよ?」
「そういえば、そうだな」
 近い将来には義理の親子となる創と深雪だが、現時点では赤の他人である。深雪まで呼ばれる理由が確かに謎だった。
「こんなところでうんうん考えているより、行ってみたほうが早いでしょ」
「だな」
 勝弘たちは、社員専用のエレベーターに乗り、本社最上階へと向かった。
 チンと小気味よい音がしてドアが開くと、一面にはいかにも高級そうなベージュ色の柔らかな絨毯が敷き詰められ、すぐ目の前には赤茶色の重厚な扉がそびえ立っていた。扉の上には第一会議室というプレートが掲げられている。
 得も言われぬプレッシャーを感じ、勝弘はゴクリと唾を飲み込んだ。何か、妙な胸騒ぎがする。深雪も同様だったらしく、ギュッと勝弘の袖を握ってきた。
 だが、いつまでもこうしているわけにもいかなかった。上からの呼び出しを断るなど、新入社員にできるわけがない。
 コンコンとノックして、勝弘は声をあげる。
「開発部四課、阿国勝弘、総務部庶務課、浦嶋深雪、参りましたっ!」
「入りたまえ」
 低音で張りのある、威厳に満ちた声が応えてきた。この声には聞き覚えがあった。入社式で散々耳にした、社長の声だった。嫌がおうにも勝弘の緊張が高まる。
「「失礼します」」
 ドアを開き入室するなり、勝弘と深雪は姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「顔をあげたまえ」
「はい」
 言われた通りにし、室内の光景を目の当たりにし、勝弘の表情がさらに強張る。
 円卓の上座には社長が鎮座し、その両脇には三名ずつ、威厳と迫力を兼ね備えた老齢の男たちが並んでいる。着ているスーツは勝弘が来ている安物とは材質からして明らかに違う高級感に溢れ、その胸元には重役であることを示す社章が輝いていた。
 彼らから離れた末席に、よく知る人物を見つけ勝弘はほっと胸を撫で下ろした。彼の存在を見つけられなければ、勝弘はさながら軍法会議にでも出頭させられたような気分だったに違いない。
 白黒まだらの髪を綺麗になでつけた、細身の男だ。その顔には重厚なシワが刻まれ、縁の厚い眼鏡がかかっている。深雪の父、浦嶋博(うらしまひろし)だった。
 だが、浦嶋の冴えない表情が、また勝弘の不安を煽り立てる。
「君は今、ここ紅月市で起こっている怪事件のことを知っているかね?」
 社長が机に肘をつき口元で両手を組んだ姿勢で、勝弘に尋ねてきた。
 なぜそんなことを社長が一介の新入社員に問うのか、その理由がまったくわからず勝弘は戸惑う。だが、訊かれた事には答えるべきだろう。
 ゴクリと唾を呑みこんでから、勝弘は「失礼のないように」と心の中で唱えて、ゆっくりと口を開く。
「それは、人が鬼のような怪物へと変貌すると言うあの事件のことでしょうか?」
「知っているなら話は早い。あの事件は、君の父、阿国創博士が引き起こしたものだ」
「は? はああああああっ!?」
 重役たちの前ということも忘れ、勝弘は素っ頓狂な声をあげた。
 社長の言葉を理解するのに、数秒を要した。あまりに意表を突かれた。そして理解が及ぶと、ぶるぶると身体が大きく震えだした。
「う、ううう嘘だ、嘘です、そんな……父が、父がそんなことするわけがないっ!」
 勝弘はみっともないほどに取り乱して、父の無実を訴える。
「君がどう思おうと、事実は事実だ」
 だが、社長は顔色一つ変える事なく、冷徹にそう告げた。
 勝弘が知る父は、正義漢の強い人物だった。幼少の頃より、「正しくあれ」と勝弘を厳しく叱ってきた男だった。とてもそんな事をしでかすとは思えない。
 思えないが、それでも、社長がここまで断言するからには、それなりの証拠と言うものがあるのだろう。もし間違っていれば明らかな名誉棄損だ。世界的大企業のトップがそんな軽率な事をするとも思えない。
「あの鬼は、阿国博士とそこにいる浦嶋博士、二人が作り出した新薬<Z>(ゼータ)により生み出されたものだ」
 社長は勝弘の反応を予測していたようで、特に気に止めた風もなく淡々と言葉を続ける。
「お父さんも!?」
 深雪が両手で口元を覆い、よろっと一歩後ずさったが、
「浦嶋深雪くん、安心したまえ。君の父親は事件そのものには関わっていない。こうして、ここにいるのが、何よりの証拠だ」
 社長の言葉にほっと胸を撫で下ろした。それからはっと表情をこわばらして、申し訳なさそうな視線を勝弘に送ってくる。
 社長の言葉は、裏を返せば、消息不明である勝弘の父が限りなくグレーであると言っているのも同然だったからだ。
「気にしないで」
 と小声で彼女にだけ聞こえるように勝弘は告げる。父親の無実がわかって、安心しないほうがおかしい。
「警察には、まだこの事は伝えていない、のですね?」
 勝弘は社長に確認するように訊いた。
 もしそうなら今頃、TVで大々的に放送しているはずだ。
 警察に伝える前に、温情的に自分に伝えてくれたのだろうか、などと勝弘は考えたが、それは見当違いも甚だしい誤解だったとすぐに思い知る事になる。
「言ってない。言うつもりもない。言えるわけがない。あんな化け物を生み出す薬を作っていたなどと世間に公表されたら、我が社は終わりだ。一年と経たずに倒産するだろう」
「しかし、それは社会的に許されない事なのでは……」
 実際に多くの被害者が出ているのだ。当事者であるパラケルがそれを隠蔽するのは許される事ではない、そう思っての言葉だったが、室内に嘲笑が巻き起こった。
「まったくどの口がそんな事を言うのか」
「あの親にしてこの子あり、かのう」
「まあ待て。あんな若造に我らの苦悩を知れというほうが無理というものだ」
 好き放題にのたまう重役たちに、勝弘はグッと拳を握り締める。
 元々それほど気の長いタチではない。瞬く間に我慢の限界を迎え、文句の一つも口にしようとしたところで、
「静粛に!」
 バァン! と、社長が平手を机に叩きつけた。一瞬にして、ざわめきが止む。社長は周囲を一瞥し、それを確認してから、再び勝弘のほうを向いた。
「阿国勝弘くん、君の言いたい事も、わからないではない。だが、パラケルの社員は世界に二万人だ。関連の下請け会社、派遣社員、その家族となれば、おそらく十万人近い数になる。君は彼らを路頭に迷わせろと、そう言うつもりかね?」
「っ…………」
 勝弘は何も言えなくなった。重役たちの嘲笑の意味が、ようやく理解できた。彼らにも生活があり、家族がいる。仕事への誇りもあるだろう。そして、その十万人の生活という責任をも背負っている。それらを台無しにしようとしている男の息子に、青臭い正論など吐かれては気分を害さないほうがおかしかった。
「これが副作用に気づかず販売していた、とでも言うのなら勿論話は別だ。社全体として社会的責任を取らねばならん。だが君には悪いが、なぜたった一人の社員の軽挙妄動を、我が社全体でとらねばならん? 我が社はあの薬を世間に出す事を、一度として認めていないのだよ?」
 その通りだった。経営陣には、社員全員の生活を保障する義務がある。社長の判断は至極当然と言えた。綺麗事で世の中は回っていない事がわかる程度には、勝弘も大人だった。
「とはいえ、<Z>を作ったのが我が社であることには、変わりはない。まあ、元々は患者の体力・回復力を飛躍的に高める画期的新薬として、なのだがね」
 それまで淡々としていた社長の声が、この時だけは忌々しげだった。
 ニュースを見る限り、<Z>がもたらすあの生命力は驚異的だ。瀕死の重傷人やこれから大手術を受ける重病人などに投与すれば助かる命の数は爆発的に増えるだろう。勝弘にもそれぐらいは容易く想像がついた。その点を強調し公表できていれば、パラケルは世界的にも絶賛されていたに違いない。経営者としてはそれだけに口惜しいのだろう。
「その責任だけはとらねばならんと思っている。あの鬼どもは、我々がどうにかせねばならん、とね。そこでだ、阿国博士の息子である君にも、ぜひ責任をとってもらいたい」
「わたしに?」
 勝弘は思わず問い返す。何かをしたいとは強く思う。父親の不始末は自分が拭わねば、という使命感も覚える。しかし、現実に勝弘は一介の新入社員に過ぎない。何の力もない。そんな自分にいったいどんな責任がとれるというのか。
 社長が能面のような不気味な無表情で、じっと勝弘を見つめてくる。入社式の時には温和な好々爺然としたイメージだったが、それだけでのし上がれるほど、世界的大企業は甘くない。そこにはいたのは、海千山千の冷酷非情な経営者だった。
「プロジェクト<エリクサー>。君にはその、第一号被験者となってもらう。君に拒否権は……ない」

 ◆

「おーい、ミヤー」
 勝弘が名前を呼ぶと、京はダッとお日様のように輝く笑顔で駆け寄ってきた。ツインテールの片方がほどけていた。娘の左腕に髪ゴムが巻かれ失くしていない事を確認する。幼稚園では激しく動き回ったり他の子ともじゃれあったりするわけで、こういうことはよくあるのだ。
 夕暮れ時の幼稚園の廊下はやや薄暗く、がらんとしていた。参観日などで大勢の園児が溢れた活気のある情景を勝弘は知っていただけに、妙な寂しさを感じずにはいられない。
 目の前の教室にはまだ五人ほどの園児たちがいて、小さな、本当に小さな机と椅子に皆腰掛けて静かに絵本を読んでいる。恰幅の良い女性の先生が一歳ぐらいの赤ん坊を抱いてあやしていた。
「ねえ、パパー、いまねー、ぬりえしてたのー。みてみてー」
「ん? どれどれ?」
 勝弘は差し出された一枚の紙を受け取る。そこには猫耳をつけフリフリの服を着た可愛らしい女の子が招き猫のポーズを取っていた。髪や服ごとに色分けされ、またはみ出してもおらず、五歳の子がやったものとしては客観的に見ても非常に丁寧な出来と言えるだろう。
 いつもの勝弘なら親馬鹿全開で娘を褒めたたえるところだったが、今の彼は決め台詞らしき一文に目を奪われ、それどころではなかった。
『ちきゅうのみらいにごほうしするにゃん(ハート)』
 地球の未来より、紅月市の平和より、萌えが幼稚園にまで浸食していた日本の未来が心配になる勝弘であった。
「うまくないー?」
「あっ、いや、上手だぞー」
 我に返り、慌てて娘の頭を撫でる勝弘。
「わーい、パパだいすきー」
 京が勝弘に飛びついてくる。勝弘も心得たもので、ひょいっと抱き上げた。
「んちゅ~~」
 どうやら京的にはかなりの自信作だったらしい。褒められて気を良くしたのか京がほっぺたにキスをしてきた。実は彼女はけっこうなキス魔だったりする。
 深雪がよく京のほっぺたにキスをしていた。無意識のうちにそれを覚えいていて、真似しているのかもしれない。深雪が京の中で息づいているのが、勝弘は嬉しかった。
 ちなみに、これが原因で滝が半殺しの目にあったのは別の話なので割愛する。
「あ~、いいなぁ。わたしもしたいなー。して欲しいなー」
 聞き慣れた、しかしここにいるはずのない柔らかな声がして、勝弘はギョッと振り返る。
 そこにいたのは予想通り――
「あー、なみおねえちゃんだー」
「はーい、ミヤちゃん、こんばんはー」
「こんばんはー」
「ちょっ、ちょちょ、七海ちゃん、なんでここにっ!?」
 にこやかに挨拶をかわす二人に割り込んで、勝弘が慌てた様子で七海を問い質す。今日の勝弘は残業ではなく、七海が京を迎えに来る必要はないはずだった。
「おにいちゃんを追っかけてきました」
 ペロッと舌を出して、七海は悪戯っぽく笑った。
 勝弘は顔を手で覆い、天井を仰ぐ。
 心当たりは、あった。ありすぎた。
 先日のピクニック。七海の告白に対し、勝弘は明確な答えを出せなかった。結局、七海に気を遣わせて、「今じゃなくて、いいですから。わたしはいつまでだって待ちますから」と言わせてしまった。
 それがとても情けなくて、またはっきりと断れなかったことが亡き妻にもうしろめたくて、結果、ここ三日ほど、勝弘は七海を避けるようになっていた。
 勿論、七海が勝弘のサポートである以上、勤務時間中は接する機会が多いわけだが、明らかに態度がよそよそしかったという自覚が勝弘にはあった。
 好きな人に無視されて、七海も色々と思い悩んだに違いない。それでも、七海は仕事にプライベートを持ちこむような人間ではない。そこで正々堂々とアフターファイブに押し掛けてきた、という次第だろう。
「ねえ、ミヤちゃん、今日はわたしが晩御飯作ったげよっか?」
 途方に暮れる勝弘を無視して、七海が京に声をかける。
「えー、ほんとー。やったー。ピクニックのおべんとう、おいしかったもん」
「あ、いや、七海ちゃん。そこまでしてもらわけには……」
 勝弘はやんわりと断ろうとしたが、
「別におにいちゃんの為じゃないから」
 ぷいっと七海は勝弘から顔をそむけ、京に笑いかける。
「ねえ、ミヤちゃん。パパと二人っきりで食べるより、わたしもいたほうが賑やかで楽しいよね~?」
「うんうん! ふたりよりさんにんがいい!」
 ミヤが勝弘の中で興奮気味に暴れ出し、ピョンと七海に飛びつく。七海もしっかりと京を抱きしめ、愛おしそうにほっぺたをすり合わせた。京もちゅ~っと七海のほっぺたに唇を寄せ、親愛の情を示す。
「やられた……」
 勝弘は再び天井を仰ぐしかなかった。ここまで喜んでいる娘の期待を裏切るのは心苦しすぎた。娘が二人っきりの食事に寂しさを感じていたことを認識させられただけに尚更だ。
 これで七海と一緒にご飯を食べられないとなれば、京はグズる。間違いなく、グズる。帰宅する間中、「なみおねえちゃんとごはんたべたかったのに~」という愚痴を聞かされる。
 まだ断る正当な理由でもあれば「仕方ないだろ」と泰然と言えるのだが、勝弘が気まずいからでは、娘の期待を裏切る理由としてはあまりに情けなさすぎた。
「七海ちゃん、いくらなんでもこういうやり方は反則だよ」
 結果、勝弘に出来るのは、恨みがましい目で七海を睨むぐらいだった。
「だっておにいちゃん、露骨にわたしを避けるんだもの。じゃあ強硬手段に出るしかないでしょ?」
 小悪魔っぽくウインクする七海が可愛くて、ドクンと勝弘の心臓が高鳴った。
 ピクニックの日以降、彼女のふとした表情に、目を奪われている自分がいることに勝弘は気づいていた。
 元々七海のことは憎からず思っており、気持ちを抑えていたのだ。それがあの告白でついに防波堤が決壊し、感情が溢れだしてしまった。七海を避けていたのも、それを認めるのが怖かったというのが理由の一つだった。
 勝弘は「自分は深雪一筋なんだ」と必死に自分に言い聞かせ、
「君って、じつは意外とずるい女だったんだね」
 つとめて不機嫌さを装ってぼやく。
「あら、二九年も生きてて、知らなかったの?」
 七海が意外そうに目を丸くする。
「女って生まれつき、ずるい生き物よ?」
「つくづく実感したよ……」
 降参とばかりに勝弘は肩をすくませた。

 幼稚園を出ると、視界一面、田んぼだらけだった。紅月市は江戸時代には米所として名高く、今も郊外に出ればこうした長閑な田園風景が広がっている。
 白を基調とした二階建ての校舎は、今は夕日によって赤みを帯びている。錆びた鉄筋や、色が禿げた壁などが年月を感じさせた。隣の運動場には滑り台とアスレチックジムを融合させたような遊具が置かれ、数人の園児たちのはしゃいだ声が響いていた。
「あー、たけるくんだっ」
 友達を見つけ、京が弾んだ声をあげる。
 なぜ京の友達には男の子が多いんだと、内心ぼやく親馬鹿の勝弘。
 そんな親の心子知らず、京の興味はすっかり運動場の友達に移ってしまったようだ。
「パパ、パパ、ミヤ、たけるくんとあそびたーい」
「だ~め。七海お姉ちゃんがご飯作ってくれるって言ってるんだ。早く帰らないと」
「ねえ、おとうさま~♪ おねがぁい♪」
 京がくねくねと身体を動かして、甘えた感じに媚を売ってくる。いったいどこでこういう事を覚えてくるのか。それとも生まれもった女のサガなのか。
 阿国京、若干五歳。すでに女のずるさを身につけていた。
 そして、その魅力に骨抜きなのが勝弘だった。しかし、七海に迷惑をかけるわけにも、とひとり苦悩していたところで、
「あ、わたし、スーパー寄ってからおにいちゃんのおうち行くから。二〇~三〇分ぐらい遊ばせてあげて。じゃミヤちゃんあとでねー」
 パンと京とハイタッチして、七海は愛車の白い軽四に乗り込んだ。次いでエンジンの駆動音が低く響く。
「なみおねえちゃん、またねー」
 京はぶんぶんと大きく手を振って、去っていく車の後ろ姿を見送った。
 勝弘はふうっと大きく溜息をひとつして、ポンと優しく京の背中を押す。
「ほら、遊んどいで」
「やったー。たけるくーん、あ~そ~ぼ~」
 京は勢いよく運動場へと駆けてゆく。その声に気づいた坊主頭の腕白そうな男の子が、無邪気な笑顔で出迎えた。
「あー、ミヤちゃんだー。なにしてあそぶー?」
「えっとねー、ワンワンごっこ!」
 京が大きな声で宣言する。
 昨今、草食系男子という言葉が取りざたされているが、その波は幼稚園にまで押し寄せているらしい。勝弘が見ている時は大抵、遊びの内容を決めるのは京の役で、男の子たちはそれに従うのが常だった。
「ワンワンごっこ?」
 勝弘は首を傾げた。みんなでワンワン叫びながら犬のように運動場を走り回るのだろうか、と当てずっぽうに推測する。
 しかし、子供の発想力は、大人のそれをはるかに凌駕するものだ。そして常識や面子というものに縛られない。
「とっといで」
 京が左腕の髪ゴムを外し、ぽいっと力いっぱい放り投げた。
 ダダッと四つん這いになって駆け出し、ゴムを拾って駆け戻り京に差し出すたけるくん。
 京は差し出されたゴムを受け取り、
「とっといで」
 再び思いっきり放り投げた。デジャヴのように同様の光景が繰り返される。
 唖然とその場に凍りつく勝弘の耳に、近くで子供を見守っていたママさんの「まるで女王様ね~」という呟きが届く。
 これは遊びだ。単なるごっこ遊びだ。
 たまたま今日はたけるくんとやらが犬役だっただけで、また別の日には京が犬役をやっていたりもするのだろう。それはそれで噴飯物だが、子供の遊びに目くじらをたてるべきではない。そこに大人が考えるような意味などない。あるわけがない。
 それぐらいわかっている、わかっているのだ。
 それでも、それでも……。
 娘の将来が少し不安になった勝弘だった。

「「ただいまー」」
 勝弘が自宅のドアを開けると、真っ暗な闇が広がっていた。三年前までは、ドアを開ければ明るい部屋と、暖かな笑顔が迎えてくれたものだが、その妻はもういない。
 無性に寂しくなって、勝弘は足早に玄関と居間の電気を点け、闇を追い出す。いつまで経っても、暗い家には慣れられそうになかった。
 京がランドセルや通園バッグを子供用のハンガーポールに吊るし、給食で使ったプラスチックの食器や箸箱を台所へと持って行く。ついで洗面所でうがい。この辺りはしっかり習慣づけられていた。
 勝弘は背広をハンガーに掛けると、居間を見回る。客を招くのだ、あまり散らかっていては恥ずかしい。幸いコマメに片付けはしているので目立って散らかった場所はない。
「パパー、きがえおわったー」
 部屋着に着替えた京が声をかけてきた。女の子のキャラクターがプリントされたピンクのTシャツに黒の短パン姿だ。
 普段なら勝弘も部屋着に着替えるところだが、いくら親しいとはいえ女性を家に招待する以上、子供はともかく自分までそんなラフな格好をするのは気が引けた。
「ねえ、きょうはなにをおてつだいすればいい?」
「そうだな、じゃあ洗い物を頼む」
 勝弘はくしゃっと京の頭を撫でて言った。
 本当に自分には勿体ないぐらい良く出来た子だと、勝弘は思う。
 京はこうして、自ら勝弘のお手伝いを申し出てくれる。五歳の子供に任せられる仕事はそう多くはないが、それでもその優しい気持ちを無下にはしたくなかった。
 勝弘は袖をまくり台所に立つ。朝に使った食器類やフライパンが水に浸けてある。これから七海が来て食事を作ってくれるというのだ。これを放置しておくわけにはいかない。
「パパー、タオル持ってきたよー」
「よし、始めるぞ」
 勝弘が洗剤をつけたスポンジで食器を洗い、流水でゆすぎ、京に手渡す。京はタオルで食器の水を拭き取り、水切りカゴに入れていく。
 流れ作業で手際よく進めていき、ちょうど最後の給食用のプラスチック皿を京に手渡したところで、チャイムが鳴った。
「ふう、ぎりぎりだったな。はーい」
 勝弘はスリッパを踏み鳴らして玄関へと赴き、一応覗き窓から誰かを確認してドアを開ける。後ろには京が引っ付いてきていた。
「こんばんはー。すこし遅くなってごめんねー」
 どっさりと食材を詰め込んだレジ袋を両手に抱え、七海がペコリと頭を下げた。
「いらっしゃーい、なみおねえちゃん」
「いらっしゃい。いや、ちょうどいいタイミングだったよ。どうぞ」
「お邪魔しまーす」
 七海は脱いだ靴を揃えて、妙にかしこまった様子で家へと上がる。居間へと通された彼女は、驚きを露わにして目を瞬かせた。
「いっがーい。けっこう片付いてる」
「オレ一人ならもっと散らかしてたろうけど、娘の教育的にも、ね」
 勝弘は苦笑して言う。子供は親の真似をするのだ。出した物は出した所に片付ける、ゴミはゴミ箱にしっかりと捨てる、後でするからとその場にポイッと置かない。そう言った事を実践するよう心がけていれば、部屋はそうそう汚れないのである。
「なるほど~。じゃあ、そんな頑張ってるパパに、美味しいご飯を作ってあげるからね」
 ムンと両拳を胸の前で握り締め、気合いを入れる七海。
「あっ、オレも手伝うよ」
 勝弘がそう申し出ると、七海はパタパタと手を振った。
「いいよ~。おにいちゃんは居間でミヤちゃんと遊んでて」
「これでも毎日自炊しているんだ。邪魔にはならないよ。それに、二人でやったほうが早いだろう?」
「う~ん、そうね~。新婚夫婦みたいでそれはそれでいいかも~♪」
 頬をうっすらと赤く染め、七海は意味ありげな流し目を送ってくる。
「じゃ、オレは京と居間で待ってるから」
 くるりと踵を返し、勝弘はその視線から逃げの一手を打つ。ただでさえ気持ちが揺らいでいるのだ。こんな空気には耐えられない。
「おにいちゃんのいけず~」
 寂しそうに、でも冗談っぽく七海はぼやいて台所へと向かう。逃がしてくれる彼女の優しさが、勝弘の良心をチクチクとさいなむ。
「じゃあミヤ、料理ができるまで宿題でもしてよっか」
 勝弘はポリポリと頭を掻きつつ、足下の京に声をかけた。
「うん、きょうはなにすればいい?」
「今日はまず絵日記だな~」
「え~、えにっき~!?」
 京が露骨に顔をしかめた。
 一年ぐらい前から絵日記を書かせるよう幼稚園から指導されていた。本来なら毎日書かせなければならないのだろうが、他の宿題などもあり、こんな小さい頃から一日一時間近くも机にかじりつかせるのはさすがに不憫な気がして、一日おきに書かせている。
 しかし、一年近くも続けていると京もかなり飽きがきているみたいで、最近はこんな感じで絵日記を書くのを嫌がるのだ。
 嫌な事でも、やらなければならない事はやらなければならない。社会に出ればそういう事ばかりだ。今のうちから少しずつ耐性をつけていかねば、大きくなった時に根性の足りない子になる。そう考えて、勝弘は心を鬼にする。
「ほらほら、嫌でも机に座ってしっかりと書く!」
 声に少しドスを効かせて勝弘が睨むと、京はしぶしぶと言った感じで、本棚から絵日記を取り出してちゃぶ台の前に座布団を敷いて座る。
 ペン立てから鉛筆を取り出し、ズズッと鼻をすすりながら絵日記を書き始めた。
「ん? ミヤ、少し鼻つまってるのか?」
「んー、ちょっとぉ」
「ふむ、元気はあるか? いっぱい、普通、すこし?」
「げんきはいっぱーい!」
「んじゃそれほど気にするほどじゃないか」
 洟垂れ小僧なんて言葉があるぐらい、子供というものはちょっとしたことで鼻づまりを起こしやすい。大人より鼻の粘膜が敏感で、また鼻腔が狭い為だ。ちょっと埃を吸いこんだ程度でも鼻がぐずついてしまう。
 とりあえず元気はあるみたいだから、風邪の類ではなさそうだ。念のため、絵日記を書き終えたら体温を測っておこう。そんな事を考えながら、ソファに腰掛けて読みかけの小説を開く。
 親馬鹿の勝弘としては、本心としては娘をじっと見守り、間違った箇所などを逐次教えてあげたいところなのだが、あまりかまいすぎるのも子供に良くないということで、こうして自分を律している。子供が自分一人の力でやり遂げるのが大事なのだ。
 しばし、台所から漏れ聞こえる調理の音と京が絵日記に書き込む音だけが室内に響き渡る。勝弘が二〇ページほど読み進めたところで、京が万歳と手をあげた。
「できたー。パパ、読んでー」
「よーし、貸してみな」
 差し出された絵日記を勝弘は顔を綻ばせて受け取る。
 実はこれを読むのが勝弘のここ一年の最大の楽しみだったりする。拙いなりにも娘が幼稚園で何をしているのか、何を想ったのか、そういうことが伝わってきて、すっかりやみつきになっていた。
「どれどれ」
『きのうわようちえんでゆうぎしつであそべなかたですけど
 えにきがんばてみんなのえにきにわまけないの
 みやちゃんとがんばります
 ほんとですよ
 いつもはなみず』

「「ごちそうさまでした」」
「はい、お粗末さまです」
 空になった皿を眺め、七海が嬉しそうに頷く。
 今夜のメニューは肉じゃがにハンバーグ、お味噌汁、そして深雪の卵焼きと、全体的にお袋の味を思わせる構成だった。その辺、やはり意識してくれているのだろう。勝弘は頭が下がる思いだった。
 料理自体はどれも勝弘にも作る事だけならできる代物だったが、どれ一つとっても勝弘には太刀打ちできない美味しさだった。主婦歴二五年の大ベテラン(母親)の指導がしっかり活きているのだろう。
「じゃあ、わたし洗い物を……」
「あ、それはオレがやるよ」
 食器を持って立ち上がろうとした七海を、勝弘は手で制する。
「作ってもらって、後片付けまでしてもらうのはさすがに悪いからね」
「ん~、そう?」
 七海はじっと勝弘の表情を伺い、しぶしぶと座り直す。さすがに付き合い二〇年以上の幼馴染みだ。勝弘の本気度を読み取るのが抜群に上手い。
「それよりミヤと遊んであげて」
「了解であります。ミヤちゃーん、お姉ちゃんに抱っこさせて~」
 七海がカモンとばかりに両手を広げる。
「いいよー」
 トテトテと京が七海に歩み寄り、その膝の上に座ると、
「ミヤちゃん、大好き~」
 七海が優しく愛おしそうに抱きしめる。彼女が本当に京を好いてくれているのが感じられて、勝弘は少し嬉しくなった。
「ミヤもなみおねえちゃんだいすきだよー」
 京がチュッチュッと七海の手にキスをする。それがまた七海の琴線に触れたらしく、感極まったという表情で京の頬に自分の頬をスリスリし出した。
「あれー、なみおねえちゃん、つめすっごいきれー」
 京の瞳が興味津津という体で七海の手を見つめる。京はキラキラしたものや綺麗なものに目がなかったりする。幼稚園に持って行っている水筒がその良い例で、キラキラしたシールで隙間もないほどに装飾されていた。この辺はやはり五歳とはいえ女の子だった。
「ああ、ネイルケアしてるのよ」
「ねいるけあ?」
「今度ミヤちゃんにもしてあげるね」
「ほんとー? してみたーい」
 京は楽しみとばかりにはしゃぐ。
 七海もそんな京を微笑ましそうに見ていたが、ふとその目が険しくなる。
 手元に置いてあった白のハンドバックから櫛を取り出す。
「ミヤちゃん、この櫛あげるから、これから毎日、髪のお手入れしようね」
 まずは手櫛で京の髪をそっと梳きながら、真剣そのものと言った表情で七海が言う。
「髪は女の命だよ! しっかり梳かすのと梳かさないのとじゃ、美しさが全然違うんだからね! ミヤちゃんもどうせなら綺麗でいたいでしょ?」
「うん、ミヤ、きれーなおんなのこになりたーい」
「よし。お姉ちゃんが教えてあげるから、明日からしっかりやろうねー」
 七海は瞳の中に炎を燃え上がらせて、気合入りまくりで京へのレクチャーを開始する。京も熱心に聞き入っている。こういうお洒落への執着は、勝弘には到底理解できないものだった。
「この辺が男親の弱さ、だな」
 若干の疎外感を感じつつ、ポリポリと勝弘は頭を掻いた。
 先程の食事中も、七海は京の胡坐座りを注意し、正座を横に崩した座り方、いわゆるお姉さん座りを伝授していた。子供は親の真似をする。まだ他にも、勝弘の男っぽい仕草を京が真似している箇所はあるだろう。言葉遣いなどはそれが特に顕著だ。
 京はこれからもどんどん成長し、難しい年頃になっていく。しっかりと彼女を女らしく育てるには、やはり女親の存在は不可欠な気がした。この短い間ですらそれを痛感させられる。
 再婚の二文字が、勝弘の脳裏を過ぎった。娘の為にも選択肢として考えなければならない時期なのかもしれない。そうなると、やはり第一候補は今、愛娘と笑い合っている女性以外に考えられず――
「って何考えてるんだよ、オレは」
 勝弘はブンブンと頭を振って、頭の中に思い浮かんだ思考を追い出す。それじゃあ娘の教育の為に七海を利用するみたいなものじゃないか。しかし、七海は三番目でも幸せと言ってくれた。自分にとって大切な人間を三人あげろと言われれば、間違いなく七海はその中には入る人間で――
「いや、やっぱりそれは失礼だろ……」
 大きく溜息。どうにも自分があさましい人間に思えて、自己嫌悪に陥る勝弘だった。
 こういう時は作業に没頭して何も考えないに限る。勝弘は机の食器類を重ねて流しへと持って行き、洗う事にした。
 ひたすら黙々と作業をこなし、あらかた片付いたところで、七海が声をあげた。
「おにいちゃーん、八時だしそろそろわたし帰るねー」
「ん? そうか。今日はいろいろありがとな」
 タオルで手を拭いてから、勝弘が居間へと戻ると、
「え~、なみおねえちゃんかえっちゃうの~。もっとあそぼ~」
 京が引き留めようと七海の手を引っ張っていた。
「こらこら七海お姉ちゃんを困らすんじゃない」
「いやなの~。ずっとなみおねえちゃんといっしょにいるの~」
 普段はけっこう聞き分けの良い京が、珍しく勝弘の言葉に異を唱える。やはり父娘二人の生活に寂しさを感じているのだろう。
 その横顔を見てしまうと、滝や浦嶋の言うように血生臭い現場を離れ、七海と三人で慎ましやかに平凡に暮らすのが、自分の取るべき選択なのではという思いが、再び頭をもたげる。
「そんなにわたしと一緒にいたい?」
 何かを思いついたのか、七海がしゃがんで京に訊ねる。彼女はいつも、京と話す時はこうして目線を合わせるようにしていた。こういう小さな事の積み重ねが、子供の信頼を勝ち得ているのだろう。
「うん、いっしょにいたい!」
「わたしとミヤちゃんのパパが結婚したら~、わたし、ずっとこのおうちにいられるよ?」
「ぶっ!」
 意表をついた七海の大胆発言に、勝弘は思わず吹き出した。
「ほんと!? パパ~、なみおねえちゃんとけっこんして~」
 京がキラキラと瞳を輝かせて勝弘に迫る。
 その勢いに、ジリッと勝弘はたじろいだ。
「いや、ミヤ、あのな、結婚ってのはそう簡単にできるもんじゃなくて、そう、その二人の気持ちが大事で……」
「そうなの~。わたしはミヤちゃんのパパと結婚したいんだけど、パパはなかなか『うん』って言ってくれないの。だからミヤちゃん、パパにわたしと結婚するよう何度もお願いしてね?」
「うん、ミヤ、パパにおねがいする!」
 京が俄然やる気になって、何度も頷いていた。
「きょ、今日の君は卑怯すぎるぞ! 子供を使うのは反則だっ!」
 みっともないほどに取り乱して、勝弘は声を荒げる。自分も七海に対してずるい態度をとっている自覚はあるが、それにしたってこれはやりすぎだと思った。
 だが、七海はその批難をまったく意に介さず、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
「もうわたしの気持ちはおにいちゃんにしっかり伝わってるみたいだしね。後はアタックあるのみかなって。将を射んとすればまず馬から。親馬鹿のおにいちゃんを落とすにはまずミヤちゃんを味方に取り込むのが最善でしょ?」
 勝弘はぐうの音も出なかった。
 天使の皮を被った小悪魔が、そこにはいた。

 お風呂を終えると、時計はすでに九時を指していた。
 子供はもう寝る時間である。
 歯磨きを終えた京が自分の本棚から絵本を取り出していた。子供に絵本を読み聞かせるのは、将来、子供を本好きにし、また親子のコミュニケーションにもなるということで、勝弘は毎晩、京が選んだ本を朗読するようにしていた。
 眠りにつくまで、何度も「もういっかい読んで~」とせがむぐらいなので、京もこの就寝前のひと時を気に入ってくれているらしい。
「きょうはこれ~」
「桃太郎か。よし、ほれベッドで横になれ~」
「は~い」
 京は勝弘に絵本を渡しベッドによじのぼると、布団を捲ってコロンと仰向けに寝っ転がった。
 勝弘もその隣に身体を横にし、彼女に見えやすいように絵本を開く。
「「む~かしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが……」」
 勝弘と京の声がハモる。ひらがなが読めるようになった最近の京は、こうして勝弘と一緒に絵本を読み上げるのを好んだ。親と一緒というのが好きなお年頃なのである。
「「……おばあさんが桃を切ろうとすると、パカッと桃が割れて、中からたまのようにかわいらしい赤ちゃんが……」」
 そこまで読みあげて、ふと、勝弘の脳裏に滝の言葉がよぎった。
『知ってるか。桃太郎って明治時代まで、桃を食って若返ったじいさんとばあさんがハッスルして生まれた子供だったんだぜ』
 そういう子供の教育上不適切な雑学には、妙に精通した男だった。
(いかんいかん)
 頭から雑念を振り払い、勝弘は朗読に集中する。
「……めでたしめでたし」
 読み終えた頃には、隣からすやすやと寝息が聞こえてきていた。七海が来たことでけっこうはしゃいでいたから、寝つきがよかったらしい。
 勝弘は微笑して、そっと娘に毛布を掛け直した。

「うおおおおおおおっ!」
「はあああああああっ!」
 振り降ろされたマンティスの右腕と、噴き上げるようなホーネットの蹴りが火花を散らして激突する。
 圧し勝ったのはマンティスだった。ホーネットは五メートルほども後方へと弾き飛ばされ、バッと背中の翅を広げてようやく止まる事に成功する。
 コンクリートに覆われた半径五〇メートルほどの空間に、一面砂地が広がっている。天井に設置された複数の白色灯が照らし出す中、二体は睨み合う。
 二体とも大きく息を切らし疲労の色が濃く、身体を覆う装甲に刻まれた歪みやへこみがその激闘ぶりを物語っていた。
 先に動いたのはホーネットのほうだった。二対四枚の翅を羽ばたかせ、マンティスへと突っ込んでくる。
 マンティスが右の鎌を振り降ろすも、そこにホーネットの姿はない。
 だが、人間の目には消えたようにしか見えなくても、マンティスの複眼はホーネットの動きをしっかりと捉えていた。
 マンティスは振り返りざまバックハンドブローを放つ。
 しゃがんでそれを避けたホーネットは、膝のバネを使って拳を打ち上げてくる。
 マンティスは逆の手でそれを捌く。
「ぐっ!」
「ぬうっ!」
 至近距離での乱打戦となった。
 人の目では到底追えない超高速の攻防。
 二体はそれぞれの攻撃をかわし、防ぎ、隙を見るや反撃に転ずる。
 時間にしてわずか五秒足らず。しかしその間の攻防は実に一〇〇手にも及んだ。
 均衡を破ったのは、スピードで勝るホーネットだった。右の拳がマンティスの防御をすり抜け頬を打ち抜く。
 よろめくマンティスに、好機と見たホーネットがさらにワンツー。
 だが、マンティスもただやられはしなかった。
 ツーに合わせ、最初から相打ち覚悟のカウンターをホーネットのどてっ腹にぶち込む。
 攻撃を打ち込んだ瞬間は、どれだけ迅い相手でも動きは止まる。それを狙いすました一撃だった。
「げふげふ、三発打ち込んで、一発でチャラってのはやりきれねえぜ」
 腹部を押さえ、ホーネットは溜まらず距離をとる。
 その声は普段の滝とは似ても似つかぬくぐもった声だ。インセクターに変身すると、マンティスもそうだが、普段とは声がガラリと変わってしまう。
 正体を隠すと言う意味では、実に好都合だった。インセクターの声はTVでもたびたび流れている。
「ぺっ。てめえだってそのスピードは反則だ」
 マンティスが口の中に溜まった血を吐き捨て、再び構える。
『そこまでっ!』
 室内に、しわがれた声が大音量で響き渡る。マンティスたちが上を見上げると、そこにはカメラとスピーカーが設置されていた。
「タイムアップ……か」
 ホーネットがおどけたように肩をすくめる。
「そのようだ。引き分け、だな」
 マンティスも構えを解き、全身から力を抜く。
 インセクターたちはこうして月に数回、模擬戦闘を行っていた。練度の違いこそ、オーガに対する最大のアドバンテージだからだ。ひいては今後、出現の可能性のある敵性インセクター対策でもあった。
「いや、オレの勝ちだろ」
「なんだと? それは聞き捨てならな……ぐっ!」
 ホーネットの軽口に、ムッとマンティスが言葉を返そうとして詰まった。口元を押さえ、苦しそうに粗い呼吸を繰り返す。
 禁断症状だった。緊張の糸が途切れ、我慢していた衝動が一気に襲ってきたのだ。全身の細胞が血液を求め、マンティスの身体を熱く昂ぶらせる。
「な? ほら、さっさと七海ちゃんに癒してもらいな」
 しっしっとホーネットが追い払うように手を振る。
「くっ」
 マンティスにはもはやそれに文句を言う余裕すらなく、ホーネットに背を向け出入り口の扉まで無我夢中に駆けてゆく。
「ハッタリ勝ち、だな」
 その姿が扉の奥に消えてから、ホーネットはトスンとその場に座り込んだ。ブルブルとその脚が痙攣している。
 ホーネットがインセクター最速のスピードを誇るならば、インセクター最強のパワーを誇るのがマンティスだった。その攻撃は、防御に用いたホーネットの手足にしっかりとダメージを刻んでいたのである。
 そこに極めつけのカウンター気味のボディブローだ。実はホーネットは立ってるのがやっとという状態だったのである。後一〇秒も時間が残っていたら、間違いなくマンティスが勝利を収めていたはずだ。
「ま、ズルでも勝ちは勝ちだ。あんな事を言った手前、今日だけは負けるわけにはいかなかったから……な」
 ホーネットは満足気にそう呟いて、グッと拳を握り締めた。

 生物は例外なく、『免疫』という防御機構を持っている。
 体内に侵入した異物に対し、それを排除ないしは殺滅する『抗体』と呼ばれる物質を作り出すのも、その一つだ。
 この免疫反応を利用した医療法に、『ワクチン療法』と『血清療法』の二つがある。
 ワクチン療法とは、無毒化ないしは限りなく弱毒化した病原体を人体に接種することで、体内にこの『抗体』を作り出し、以後、この病原体がもたらす感染症にかかりにくくするというものだ。
 これを専門的には、能動免疫と言う。抗体を作り出すまでに一週間以上の日数を要する為、即効性はないが、抗体が長期間、体内で持続するという性質を持つ。馴染み深い例をあげれば、子供の時に受ける予防接種がこれに当たる。
 血清療法とは、人間以外の生物に、無毒化ないしは弱毒化した毒素を接種し『抗体』を作らせ、その『抗体』を含んだ血液から作り出した血清を、患者に投与することで治療するというものだ。
 これを専門的には、受動免疫と言う。すでに出来上がった『抗体』を移す為、極めて即効性がある。反面、あくまで借り物であり自分の体内で抗体を作りだす機構がないので、長期間の持続性はない。
 パラケルが開発した試薬<Z>、通称ゾンビパウダーは、端的に言えば『毒』である。
 ほんの少量でも摂取すれば、一時的には飛躍的身体能力の向上が見られるものの、ほぼ確実に生物を死に至らしめる猛毒だ。一度、体内への侵入を許せば、一週間以上の期間を要する能動免疫ではまず間に合わない。つまり『血清』による解毒が現実的な対処方法となる。
 ゾンビパウダーを服用し、次いで血清で解毒する。その繰り返しの中で、ゾンビパウダーがもたらす『力』と『精神の興奮作用』をコントロールする術を身につけた存在、それがすなわち、インセクターであった。
 登記上は地下一階までとされるパラケル本社ビル、その地下三階に存在する第零号開発室こそ、かつてはプロジェクト<エリクサー>の推進部署であり、現在はこのインセクターの開発・研究・調整・指示を行う部署である。その室長である浦嶋博は、まさにオーガ・インセクター関連を統括する最高責任者であり、勝弘の直属の上司だった。
「今日は全体的に動きに冴えがないね」
 浦嶋はキィッと椅子を軋ませつつ、淡々とした口調で言った。縁の厚い眼鏡に白衣という出で立ち、七年前はまだらだった頭髪は、今は綺麗な白髪となっていた。
 その机には研究資料と思しき書類の束と百科事典のような分厚い書籍が、山となって積み上がっていた。中央に鎮座する液晶ディスプレイには、先程地下二階の特殊ホールで行われたマンティスVSホーネットのスロー動画が流れている。
 広さ十畳ほどの室長室には様々な実験器具が溢れかえり、混沌としたものものしい雰囲気があった。ここに来るたび、部屋を包む『白』に勝弘は妙な圧迫感を覚える。
「滝の動きが良かったからそう見えたのでしょう。ヤツは強くなりました」
 無表情を装ってそう答えつつも、勝弘には自分の調子が悪いという自覚があった。その理由にも心当たりがあった。
 迷いだ。
 先週末、辰巳山森林公園に行ってから、勝弘は迷い続けていた。
 インセクターとして戦える時間が残り少ないことは、勝弘自身もわかっていた。だが、そのタイムリミットはどこか漠然としていて、具体的な「終わり」がいつになるのかまでは見えていなかった。それが他人から引退を突きつけられたことで、俄然、現実味を帯び始めた。
 あの時は認められなくて滝の言葉に思わず反発してしまったが、独りになって考えるともう一人の自分が囁くのだ。
 滝のほうが正しいのではないかと。使命感と責任感、そして復讐。そういったものに囚われて、自分は冷静さを欠いているのではないか、と。
 これがまだ、自分一人で済む問題なら勝弘も迷わなかった。だが、この決断には七海の命がかかっている。自己満足にしがみついて、彼女の好意につけこんで、彼女を危険にさらし続けるのか。
 それは自分の研究の為に無辜の市民を犠牲にする父と同様の、否、それ以下の下劣な所業ではないのか。
 そして最も心に響いたのは、七海を殺したその手で京を抱けるのかという言葉だった。愛する娘を人殺しの子にしていいのか。彼女の輝かしい未来にそんな汚点をつけてしまっていいのか。
 そんなインセクターとしての自分に疑問を抱えたままで戦えば、精彩を欠くのは至極当然と言えた。
「その滝くんから報告を受けている。わたしも彼の意見に賛成だ。そろそろただの父親に戻ってもいいのではないかね? これは上司としてだけではなく、京の祖父としての言葉でもある」
 椅子の肘置きをトントンとリズミカルに叩きながら、浦嶋は言う。
 この人もかと、勝弘の中に暗澹としたものが広がる。
「自分はまだ、諸悪の根源であるヤツを捕えていません」
 内心の動揺を押し隠し、勝弘は淡々と言葉を返す。
「ふむ……」
 浦嶋がじっと眼鏡の奥から、全てを見透かすような鋭い視線を向けてくる。事実、彼は勝弘のデータは本人以上に知り尽くしているはずだった。
「君は第一号のインセクターだ。言い換えるなら、最も不完全なインセクターでもある」
 どんなものでも、初期のものほど問題を残しているものだ。しかもオーガへの対策は緊急を要したが為に、第一号である勝弘には明らかな未完成品を用いた経緯がある。結果、必然として、勝弘は変身後の吸血衝動という後遺症を抱えることとなった。
 第二号であるホーネット以降のインセクターが持たない、マンティスだけが抱える欠陥である。インセクターの中で、唯一サポートがついているのも、それが理由だった。
「後進も育った。社長は厳しい方だが、決して人の情を忘れた方ではない。君に非人道的としか言えない命令を下したのも、苦渋の決断だったはずだ。それでも君はその期待に応え、結果を出した。滝くん以降、吸血衝動の問題が解決したのは君がその身を捧げてくれたおかげだ。もう引退を申し出ても、相応のポストとともに君に報いてくれるはずだよ」
 浦嶋は立ち上がり、勝弘の肩をポンと叩く。
 後にも先にも、勝弘が社長と会ったのは七年前の、勝弘の運命を変えた「あの日」だけだ。それでも、あの顔を思い浮かべるだけで、その喉をかき切ってやりたいという暗い衝動が腹の底からせり上がってくる。
 社長が勝弘にもちかけた人体実験まがいの命令。そこには何のわだかまりもない。むしろ父親の尻拭いをさせてもらえる力を与えてくれて、他の誰でもない自分を選んでくれてむしろ感謝しているほどだ。
 また、インセクター第二号に自らの息子をあてがった、自他分け隔てない公明正大な人柄には尊敬すら覚える。
 だが、と勝弘は奥歯を噛み締める。
 勝弘の症状からもわかるように、当時、ゾンビパウダー服用者の吸血衝動は何ら解決していなかった。しかし、オーガに対抗できる『超人』の誕生は必要不可欠であり、また急務でもあった。
 そして、その「生贄」として社長が選んだのが、ゾンビパウダー共同開発者浦嶋博の娘であり、勝弘のフィアンセでもあった浦嶋深雪だったのである。
 オーガとなった人間が「理性」を保てるかどうか、それすらまだ未知数だったというのに、まったく責任などないはずの若い娘の命を会社の為に賭けたのだ、あの社長は。
(オレも同じ……か)
 そこまで考えて、勝弘は思わず自嘲する。自分とて、自己満足の為に七海の命を賭けているではないか。人の事を言えた義理ではない。
 それでも、そんな自分を自覚してもなお、勝弘の心の中で暗い炎がくすぶる。自分の、自分たち家族の幸せを壊したあの男は今ものうのうと研究を続けている。インセクターを辞めるということは、それをむざむざ見過ごすということだ。到底、許せるものではない。
 こんな狂おしいほどの未練を抱えて新しい未来へ歩み出すなど、果たして自分にできるのだろうか。
「……少し考えさせてください」
 それだけ言うのが、精いっぱいだった。

 ヤマザキ製ERS一一〇〇、通称エウロス。
 総排気量一一六四CCの大型バイクだ。いかにもバイクと言った迫力のあるそれでいて現代的に洗練されたデザイン、低回転からトルク感のあるパワーが気にいって、勝弘はインセクターとなって以来六年強、晴れた日の市内パトロールにはこのバイクを愛用していた。
 緊急時の機動力は四輪車とは比べ物にならないし、今日のように鬱屈としたものを心に抱えている時は、こいつで風を切れば少しは吹っ切れると言うものである。
 勝弘はパラケル本社を出てからたっぷり一時間ほど市内を疾走した後、市中心部からやや外れた所にあるボロビルの前に降り立った。
 ヘルメットを脱いで、看板を見上げる。そこには『風間探偵事務所』とあった。
「失礼、所長はいますか?」
 形式的にドアをノックして、返事も待たずにドアを開け中に押し入る。
 外見とは裏腹に、中はけっこう小綺麗に整理整頓されていた。奥に腰掛けていた四〇代ぐらいの中年太りした男が、勝弘の顔を認め「おや?」と額にしわを寄せる。この探偵事務所の所長、風間聡だった。
「これは阿国の旦那。どうしました?」
 所長は眼鏡のズレを直し妙に人懐っこい笑みを浮かべると、
「どうぞどうぞ、お掛けください」
 勝弘を応接セットのあるほうへと誘導する。
 勝弘もその勧めに従い、ソファに腰掛ける。視界の隅で、彼の他にもう一人いた女性の職員が、給湯室へと消えた。
「なにか阿国創の情報は掴めましたか?」
 勝弘が単刀直入に用件を切り出すと、所長は手を振って苦笑する。
「そんなものがあったら、即刻そちらに連絡してますって」
「……パラケルは貴方たちにただ飯食わすために高い金を払ってるんじゃありませんよ?」
 勝弘はジロリと視線で威圧する。
 だが、特に堪えた風もなく、所長は苦笑したまま表情を崩さない。相変わらず食えない男だ、と勝弘は内心で毒づく。
「ん~。今日は言葉に棘がありますねぇ。なんかありましたか?」
「この七年、ろくな情報の一つも掴めていないんです。嫌みの一つも言いたくなります」
 オーガ問題の根本的解決の為、パラケルはいくつかの探偵事務所に阿国創の捜索を依頼していた。この所長はその中でも、裏の世界や警察関係にもコネを持つやり手の情報屋だった。にもかかわらず、何一つ有益な情報を送って来ない。勝弘にしてみれば期待外れもいいところだった。
「それを言われると痛いですな~」
 ポリポリと所長は困ったように頭を掻く。やはりどこかのれんに腕押しな感じがして、勝弘をいらつかせる。
 女性職員が、「どうぞ」と机にお茶を置いて、一礼して去っていく。
 所長はそれを一口すすり、
「ですがねぇ。阿国の旦那、あなた、警察に捜索届けも出してるんでしょ? パラケルもけっこう圧力をかけてるみたいですしぃ、本腰入れて探してくれてるみたいじゃないですか? それなのに目撃情報の一つもない。普通に考えたら、ちょっと言いにくいんですが、死んでると見るのが妥当じゃないですかねぇ?」
「そんなはずはありません。親父は必ずこの街にいます」
 勝弘は首を振って、はっきりと断言する。
 所長は露骨に顔をしかめて、大きく溜息をつく。
「だからぁ、いつも言ってるじゃないですか。その理由を教えてくださいって。それさえ教えてくれたら、もしかしたら見つかるかもしれませんよ?」
「わたしにも守秘義務ってのがあるんですよ。知りたかったら上に掛けあってください」
 まあ無駄だろうけど、と心の中で勝弘は呟く。
 オーガ化現象は、紅月市でしか発生していない。それが勝弘の何物にも勝る根拠であった。だが、パラケルがオーガ問題への関与の公表を許すわけがない。
 勝弘自身、パラケルの事実隠蔽に一〇〇パーセント納得しているわけではない。しかし、パラケルの破綻はそこで働く人々だけではなく、オーガ問題で疲弊した紅月市の経済基盤そのものを揺るがしかねない。
 安っぽい正義感や倫理観だけでその引き金を引くほど、勝弘は子供ではなかった。
「ふ~、正直ね、お手上げ状態なんですわ。ちょこっとでいいんで、糸口になりそうな情報だけでも頂けませんかね~?」
「糸口、ですか」
 勝弘は口元に手を当て悩む。自身に残された時間が短く、あまり悠長なことはしていられないのも確かだった。
「……先に断っておきます。これから話すことはパラケルの判断ではありません。あくまで私の推測です。よろしいですね? ……阿国創のバックには大きな組織がいます」
 勝弘は頭の中で何度も台詞を繰り返し、問題がないかを確認しつつ慎重に言う。目の前にいるのは「情報屋」だ。下手な言質を与えるわけにはいかない。
「ほう、大きな組織?」
 所長が眼鏡の奥で、興味深そうに瞳を輝かせる。
「根拠は言えませんが、恐らく間違いありません」
 そもそも、潜伏するには住居と食糧の確保が必要不可欠だ。目撃情報の一つもないということは、すなわち、それらを提供している支援者がいることを示している。
 そして、ゾンビパウダーは一〇年以上も前に開発されているにもかかわらず、未だ世界のどこでも同種のものが開発されたという話を聞かない。
 ゾンビパウダーの製法については勝弘にも知る権限が与えられておらず、想像するしかないのだが、それほど特殊な薬だ。個人レベルで原材料を入手するのはほぼ不可能なはずだし、また、その精製には相応の設備も必要になるだろう。
 それが用意できる組織と言えば――
「ふむ、この街で大きな組織というと、貴方がたパラケル、そしてライバルの渋川化学工業、そして紅月医療財団あたりですか」
 所長がそう呟いて、じっと勝弘の表情を伺う。かまをかけて、こちらの表情から情報を読み取ろうと言うのだろう。さすがに抜け目のない男だった。
「さ、さあ、そ、そこまでは私の口からはなんとも……」
 勝弘はわざとらしいほど慌ててみせる。これでこちらの意図は伝わったはずだ。
 ズバリ、勝弘が怪しいと睨んでいるのが、その渋川化学工業と紅月医療財団だった。渋川化学工業は医療器具がメインだが、医薬品も一応取り扱っているし、紅月医療財団も新薬の開発にはかなり力を入れていると聞く。
「わかりました、その線で探ってみましょう」
 所長はニヤリとヤニで黄色くなった歯をのぞかせ笑った。
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鷹山誠一

Author:鷹山誠一
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石川県在住の駆け出しラノベ作家。
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